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ESD(Education for Sustainable Development=持続可能な開発のための教育)

大学で10年間ESDコースに携わったESDについて、私なりに整理したものを掲載しています。

ESDへの経緯(ESDにいたる経緯についての私見)

「ESD」の知名度不足から、まず「ESDとは何か」説明の必要場面が多い。大学の授業に関わる中で、私なりに整理したESD成立経緯とその後の展開を整理したものです。

2005年10月に出されたユネスコ「国連持続可能な開発のための教育の10年国際実施計画書(以下『DESD』と略)」の附属文書ⅠにESDの背景として記載がある。冒頭に、「持続可能な開発のための教育(ESD)は、教育と持続可能な開発という、2 つの異なる国連の関心事項の歴史の中に端を発している。」(注1)と書かれている。しかし、これはESD(DESD)を推進するための主導機関として国連が指名したのがユネスコとなったためであると私は考えている。この文書では、「持続可能な開発」は環境問題への取り組みに端を発しているとも書かれている。教育と環境問題での国連等の国際会議を中心とした歴史から作成したのが以下のものです。

 

注1:http://www.yc.tcu.ac.jp/~sato-laboratory/files/3-5-3.pdf,佐藤真久・阿部 治監訳 (2006)「DESD 国際実施計画」『ESD-J2005 活動報告書』持続可能 な開発のための教育の10 年推進会議(ESD-J) pp.188

ESDの経緯概略図2022.jpg

2.国連人間環境会議からESDへ経緯

国連環境と開発に関する特別委員会が3年に渡る検討を終えて1987年に「われらの未来=Our Common Futuer」と題した最終報告書が出された。委員長の名前を取ってブルントラント委員会と呼ばれている。「将来の世代のニーズを満たす機能を損なうことなく現在のニーズを満たす」という持続可能な開発(Sustainable Development)の概念が示された。そして、1992年の環境と開発に関する国際連合会議において採択されたのが「リオ宣言」、「アジェンダ21」、「森林原則姓名」と「気候変動枠組条約」、「生物多様性条約」である。そして、「教育は持続可能な開発と調和した『環境及び道徳上の意識』、『価値観と態度』、『技術や行動』を成し遂げ、かつ意思決定に際しての効果的な市民の参加を得るうえで重要となる」と教育の重要性が明示された ことも、注目すべき点である 。

一方、教育の動きを見るとで、国連で教育問題を担うUNESCO(国連教育科学文化機関)は1985年に第4回国際成人教育会議で「学習権宣言」を発表、1990年には万人のための教育世界会議において「万人のための教育=Edaction for All)」をスローガンとして、全ての人に基礎教育を提供することを世界共通の目標とするという国際的コンセンサスが形成された。

1990年代に入り、日本でのバブル崩壊などその後の世界経済の沈滞化する中で、リオ宣言・アジェンダ21も進まない状況がつづいたが、リオンから10年にあたる2002年に持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)が南アフリカのヨハネスブルグで開催された。持続可能な開発が国際的課題の中心要因であることが再確認された。(注6)この会議にいて、日本政府とNPO団体(ヨハネスブルクサミット提言フォーラム)が相乗りして「持続可能な開発のための教育の10年」が提案された。これを受けた第57回国連総会において「国連持続可能な開発のための教育の10年」(UNDESD=UN Decade of ESD)が採択された。このあと3年間の準備期間を経てDESDが始まることになるが、DESDの主導機関がUNESCOになったことが、その後に影響を与えているのではないかと考えている。そのいきさつがどうであったか不明であるが、WSSDまでの流れをリードしてきたのは明らかにUNEPであり、ブルントラント委員会を支えてきた日本の環境庁(当時)である

注6 持続可能な開発が国際的課題の進める(再確認化)ためのに開かれた。

​続く(再編集中)2022.04.14

ESDの成立過程2022.jpg

3.ESDをシンプルに(2018年RCE兵庫-神戸実践研究会自由研究発表

(1)問題意識

ESDの認知度が低い。ESDがわかりづらい。問題意識として、もっとESDをシンプルに説明し、認知度アップを図りたい。そのため、ESDの背景を確認し「環境ESD」と「なんでもESD」から検討を試みた。

(2)ESDの認知度が低い現実

2014年8月内閣府政府広報室世論調査では、知っているかの回答は僅か2.7%である。2006年の岡山市調査では、8.3%。2017年の長崎県の調査では、「知っている回答」は7%、言葉だけは聞いたことがある回答を含めて20%。

今年7月の文部科学省「平成29年度 ユネスコスクール年次活動調査」では、ESDの普及が進まない理由として、「教職員のESD対する理解不足」が71%、「ESDの概念がなんでも包括してしまい分かりにくい」が62%となっている。

 

(3)ESDの背景から確認

2005年10月に出されたユネスコ「国連持続可能な開発のための教育の10年国際実施計画書」の附属文書ⅠにESDの背景として記載がある。

①環境ESD(環境教育)?

人間環境宣言を発表した1972年の国連人間環境会議を起点として、環境教育の重要性が議論されてきた。2002年ヨハネスブルクサミットに於いてESDの10年が提案されるまで、環境教育が「持続可能な開発」に貢献するものであるとして進められてきた経緯がある。環境教育が拡張されたものがESDとの認識が環境教育関係者にはあったようだ。

DESDの中心的な役割を担ってきたのが、環境教育関係者であり、環境省が主導してきている。このような経緯がDESDの10年間に於いても環境ESDと言った表現が使う団体組織も多い。

環境教育が果たしてきた役割は誠に大きくその中心であったのは間違いない。しかし、広義の環境教育や拡張された環境教育がESDであるとか環境ESDといった表現を使ったことが、よりESDを混乱させる原因にもなっているのではないだろうか?

②なんでもESD?

ESDの説明でよく使われている花弁型のイメージ図がある。この図がなんでもESDと思われてしまっていないだろうか? 持続可能な開発には、多様な側面・多様な課題がある。多様な教育の連携が必要とは考えられるが、それよりも、課題の総合性をどう捉えるか、総合的な課題解決につながる観点を育む教育と言うことではないだろうか?

〇〇教育も連携によってESDとは考えられない。〇〇教育と言わない教育がESDではないだろうか。

(4)ESDを、分りやすい、解りやすい、わかりやすく!

持続可能な開発に関する世界首脳会議では、「国連持続可能な開発のための教育の10 年」を提案し、教育と学習が持続可能な開発にむけたアプローチの中心にあることを提示した。市民一般に向けにてのESDとは、「学ぶこと」の大切さを認識し、教育の重要性を再確認すること!ESDを、市民向けては啓発の側面を伝えることから出発すべきであったと考える。

ESDは、持続可能な開発と言う観点を教育に組み込み、「教育の再構築、教育を再方向付け」することが求められていると言う点、「持続可能性と言う課題についての理解を社会全体で共有」できるよう進めていこう、この2点の啓発運動の側面を市民に向けては強調していくことが、  ESDの認知度を向上させる戦略とならないだろうか。

ESDへの経緯(ESDにいたる経緯についての私見)

「ESD」の知名度不足から、まず「ESDとは何か」説明の必要場面が多い。大学の授業に関わる中で、私なりに整理したESD成立経緯とその後の展開を整理したものです。

2005年10月に出されたユネスコ「国連持続可能な開発のための教育の10年国際実施計画書(以下『DESD』と略)」の附属文書ⅠにESDの背景として記載がある。冒頭に、「持続可能な開発のための教育(ESD)は、教育と持続可能な開発という、2 つの異なる国連の関心事項の歴史の中に端を発している。」(注1)と書かれている。しかし、これはESD(DESD)を推進するための主導機関として国連が指名したのがユネスコとなったためであると私は考えている。この文書では、「持続可能な開発」は環境問題への取り組みに端を発しているとも書かれている。教育と環境問題での国連等の国際会議を中心とした歴史から作成したのが以下のものです。

 

注1:http://www.yc.tcu.ac.jp/~sato-laboratory/files/3-5-3.pdf,佐藤真久・阿部 治監訳 (2006)「DESD 国際実施計画」『ESD-J2005 活動報告書』持続可能 な開発のための教育の10 年推進会議(ESD-J) pp.188

 

1.国連人間環境会議へ経緯

 

大気汚染や水質汚染による環境破壊は、産業革命以降石炭・石油等の化石燃料の消費や産業廃棄物による近代化の歴史でもある。化石燃料を使うことで発生する硫黄酸化物等が原因して生ずる酸性雨は、世界各地で魚類や森林・農作物などへの被害をもたらした。

日本では、1950年代頃から水俣病(注2)、イタイイタイ病(注3)、四日市ぜんそく(注4)など後に公害病となる問題が顕在化し、1967年から69年にかけて訴訟が始まり、1971年から73年にいずれも原告被害者の主張を認め、被告企業に損害を賠償することを命じ、きびしく企業の責任を追及した。また同時に、行政の姿勢に対しても強い反省を促すものとなった。この間の1971年に日本では環境庁が発足している。

ヨーロッパにおいの環境問題は、1950年代頃から国境を越える環境問題として認識されてきていた。越境環境問題の最古としての取り組みとされるのが、1950年に設立された「ライン川保護国際委員会」がある。この組織は1963年にはライン川汚染防止のための協定がスイス、ドイツ、フランス、ルクセンブルグ、オランダによって締結され「ライン川汚染防止委員会」として常設事務局を持ち国際協力の枠組みで活動した。(注5)ヨーロッパにおけるこのような協働の取り組みが、1972年の国連人間環境会議に至る流れを創ったと考えられる。

1968年国連総会において「人間環境会議」の開催が決定される。そして1970年から2年間3回の準備会合を持って開催に至る。準備委員会では「人間環境」とは何かがかなり議論された。先進工業国が進めたい「地球規模の環境問題に対する規制」と「工業化こそが貧しさに起因する劣悪な人間環境を向上さる」と考える開発途上国の対立も表面化していた。最終的には「①人間居住の環境問題、②天然資源管理の環境的側面、③広い国際的意義をもつ汚染物質とニューサンスの把握と規制、④環境問題の教育,情報,社会,文化的側面、⑤開発と環境、⑥各種実行計画の国際的機構の問題」の6つの問題に絞り込まれて「Only One Earth=かけがえのない地球」をテーマに1972年6月5日から2週間、ストックホルムで開催された。その成果は、「人間環境宣言」と「環境国際行動計画」として発表され、ESDへの流れの源流となったと考えられる。26項目の原則が提示された。そして行動計画を受け1972年に国連環境計画UNEPが発足することになった。

注2 メチル水銀化合物による水質汚濁、1953年頃から魚貝の大量死や奇病の発症

注3 鉱毒としては1920年ごろには認識されていたが、1955年に命名されたカドミウム汚染

注4 石油化学コンビナートからの硫黄酸化物による大気汚染、1959年頃から喘息患者が増加

注5「環境問題をめぐる欧州地域協力枠組みの歴史的展開」,高橋若菜,2004

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